No.12 神さま(イエスさま)の喜んでもらえることを、少しずつおこなっていこう!

 

 

 

◇◇神さま(イエスさま)に助けてもらって、神さま(イエスさま)がお喜びになることを徐々に実践してみよう!◇◇

 

 

 

〔聖書箇所〕ヤコブの手紙2:14-17

 

2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

 

2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、

 

2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

 

2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

 

 

 

この世の親子関係や夫婦関係もそうですが、もし、あなたがお子さんの立場だったら、多少なりとも親孝行を考えますよね?お父さんやお母さんに喜んでもらえることをするのではないでしょうか?たとえば家のことを手伝ったり、あるいは頼まれたことを素直に引き受けたりと。もしくは、妻の立場でしたら、ご主人が喜んでくださることを考えるのではないでしょうか?仕事から帰って来たら、ゆっくりくつろいでもらおうとか、おいしい料理をごちそうしようと、そんな風にふるまうのではないでしょうか?まして、親御さんやご主人があなたに対して良いことをしてくださっているのでしたら、なおのこと、そういうことを考えますよね?

 

 

 

神さま(イエスさま)と私たちの関係もそれと同じなのです。神さまは「天の父」とも言われています。また、イエスさまは「クリスチャンの花婿」とも言われています。しかも神さま(イエスさま)は、いつも私たちに良くしてくださっていないでしょうか?目には見えないお方かもしれませんが、太陽を昇らせてくださったり、雨を降らせてくださったり、生活に必要なものを備えてくださったり、あるいは何かピンチを迎えた時とかに助けてくださったりしますよね??なので、私たちクリスチャンが天の父に親孝行をしたり、将来の花婿なるキリストの妻としての立場をきちんと果たすのが、妥当と言えるのです。そしてそれは何か?と言うと、テーマにも掲げたように、神さま(イエスさま)がお喜びになることをおこなっていくことです。クリスチャンになって、お祈りをしたり聖書を読んだり、牧師のメッセージを聞いたりして、多少なりとも神さま(イエスさま)のことを理解できるようになっておられるのでは?と思います。そうしたら、と言ってはなんですが、ぜひ、そのことを今度は少しずつ実行に移していきたいと思います。上記のヤコブの手紙には、「行いのない信仰はむなしい」とか「行いがなかったら、死んだもの」だなんてことが書かれていますので・・・しかも、神さま(イエスさま)のことばは、おこなってなんぼのものなのです。

 

 

 

では、具体的にどうしたら良いのか?と言うと、お祈りや聖書通読やメッセージを通して受けた教えを実践すれば良いのです。その方法は、いたって簡単です。たとえば「いつも喜びましょう」なんてことを聞いたとします。そうしたら躊躇することなく、そのままおこなえば良いのです。「それはわかるけどー、でも無理かも。今は喜べることなんてないし・・・」と言われる方もいるでしょう。著者も、そういう思いになることはたびたびあります。いえ、正直、実際に喜べることはそんなにないかもしれません。でも、そんな時にはですね、神さま(イエスさま)にお願いするのです。「今、喜ぶ気持ちになれません。でも、神さま(イエスさま)、私が喜ぶことができるように、力を与えてください」と。そうするとですね、しばらくして、何か不思議な力が天から与えられて、喜びが心の内側から沸いてくるのです。特別、何かが起こったわけでもないのに、何かこう、嬉しい気持ちになったりして、それがいつの間にか喜びへと変えられていくのです。これは一例ではありますが・・・そしてそのことにかぎらず、「神さま(イエスさま)に喜んでもらえることはなんでしょうか?」なんていう風にお祈りしていくと、その時々に神さま(イエスさま)が「これもやってみてごらん」「あれはどう?」なんていう風に、私たちにして欲しいことを教えてくださるのです。あとはそれを実践するだけなのです。ある意味、クリスチャンの歩みというのは、そのことの繰り返しなのです。

 

 

 

ちなみに神さま(イエスさま)に喜ばれることというのは、人間的な視点だけで見るなら、どちらかと言えば「損」をすることが多いのかもしれません。なので聖書のことばをおこなう前には必ずと言ってよいほど、ある種の「葛藤」を覚えます。特に自分がおこなうのは難しいなぁ、ちょっと嫌だなぁと思うことに関しては、ことさらにそんな風になりやすいです。「いやだけど、神さまが喜んでくれるのなら、何とか頑張ってみようかな?」あるいは「そんなこと自分に何の得も無いから、やらない」と、いずれかの選択をその都度していかなければなりません。このことは、個々における方の意志に任されています。こればかりは、神さま(イエスさま)もいかんともしがたく、手出しができないことなのです。いずれこのことも話したいと思いますが、神さま(イエスさま)はどこまでも私たちの自由意志を尊重するお方なので、無理矢理やってもらおうなんてことは、ひとつもないのです。そうであるがゆえに、どちらを選ぶか?は大事なのです。選び方次第で、結果は大きく変わるからです。しかもすべて自分で選ぶことなので、それに伴う責任というのも同時にくっついてきますので、ある意味厳しいかもしれません。でも、正しく選ぶなら・・・神さま(イエスさま)の喜ばれることに絶えず目を注いでいくのなら、祝福や恵みが約束されているのです。もし、よろしければ、ぜひ、実践してみてください。たとえどんなに小さなことであっても、おこなっていく人を神さま(イエスさま)は喜んでくださり、愛してくださいますので、ぜひ、おすすめします。