No.18 信仰とは?

 

 

 

◇◇聖書で言っている「信仰」の意味合いとは?◇◇

 

 

 

大事なことなので、もっと早目に話すべきだったのですが・・・遅ればせながら今回は「信仰」について話をしたいと思います。

 

 

 

「信仰」とは、国語辞典では「神、仏などをかたく信じ、その教えを守り、それに従うこと(心)」とあります。意味合いとしては、それぞれの人が信じている宗教の神を堅く信じて、その教えを守って、そのことに従う、ということだと思います。世の中には多くの宗教があるので、たしかにそうかもしれません。ただ、はじめの頃に話をしたように、聖書の視点で言わせていただくなら、あるいはクリスチャンの立場として言うのなら、神は唯一ですし、神が著者である「聖書」が唯一の教えです。なので、他の神々や教えというのはそもそも存在しないので、それは除外して話を進めていきます。ちなみに聖書では、「信仰」ということばが、200回以上出てきます。その中から、「信仰」の意味合いについて書かれている箇所を見てみたいと思います。

 

 

 

〔聖書箇所〕へブル人への手紙11:1

 

11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 

 

 

上記は新改訳聖書ですが、よろしければ以下、口語訳聖書も見てみましょう。

 

 

 

11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。    

 

 

 

「信仰」とは、「望んでいる事柄を確信する」とあります。そして「まだ見ていない事実を確認すること」だと書かれています。国語辞典に書かれている意味合いとは、随分、違いますよね。これは何を言っているか、分かりますか?すべて当たっているかどうかは分かりませんが、「望んでいる事柄」とは、「イエス・キリスト」のことを言われているのでは?と思います。そして「まだ見ていない事実を確認する」ということばも同じことを言われているのでは?と思います。「まだ見ていない事実」ということばも、「イエス・キリスト」のことを言われているのでは?と思います。まだ、お会いしていないけれども、イエス・キリストがいることをすでに確認(確信)していると、そんな風に取れます。つまり、どこまでも「イエス・キリスト」を信じる、それが聖書で言われている「信仰」なのです。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストに望みを置いて歩んでいくのが、私たちクリスチャンの歩みの基本なのです。裏返して言うなら、このことを抜きに「信仰生活」は成り立たないのです。

 

 

 

時に、クリスチャンの間で「信仰を持って伝道をしたら、相手にうまく話が伝わった」なんていう会話を耳にすることがありますが、要するに、イエスさまを信じておこなった結果、イエスさまから助けと力を受けて、伝道をすることができた、ということなのであります。そんな風に、イエスさまが助けてくださることを信じて踏み出すこと、それが「信仰」なのです。

 

 

 

また、そのことに関して、後押ししているかな?と思う箇所がありますので、ついでにと言ってはなんですが、その箇所も見てみたいと思います。

 

 

 

〔聖書箇所〕ローマ人への手紙8:23-25

 

8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。

 

8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。

 

8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

 

 

 

ここにも「望んでいる」「望み」ということば出てきます。これはさきほどのヘブル人への手紙と同じことを言われています。そして25節には「見ないこと」とあって、これもまた、ヘブル人への手紙に書かれていた「まだ確認していない事実」「目に見えないもの」ということばに通じるのではないかと思います。さらに24節では、「この望みによって救われている」とあって、「救い」とは、まさに「イエス・キリスト」に通じることですので、ここでも、「望み」とは、「イエス・キリスト」のことを言われていることがお分かりになるでしょう。そう、そして大事なことは、「目に見える望みは望みでない」と書かれているように、目に見えるものではなく、見えないイエス・キリストにこそ目を注ぐことが大事であり、それこそが「信仰」なのです。

 

 

 

本日は「信仰」についてメッセージをしましたが、ご理解いただけましたでしょうか?ことばが足りなかったり、説明がうまくいかない部分もあったかもしれませんが、少しでも伝えることができたら、幸いに思います。

 

 

 

ただ、「信仰」に関して、著者の経験上、必ずしもうまくいったものばかりか?というわけではなく、良かれと思っておこなったことがそうではなかったなんてことも、多々ありました。ではあっても、神さまは信仰を持って踏み出したことを喜んでくださって、のちになって、神さまの時に、失敗したことも含めてどれもこれも益に変えてくださいました。しかも失敗を通して、良い教訓を受けることができた!なんてこともありました。なので失敗を恐れずに、極端な言い方をするなら、失敗を前提にイエス・キリストを信じる信仰によって、神さまがこんなことを示しているかなぁ?語っているかなぁ?なんて思われたときには、ぜひ一歩ずつ踏み出していきましょう!成功&失敗の両者を含めて、どんな時であっても、ただただ「イエス・キリスト」に望み置いて、歩んでいきましょう!