No.20 霊について

 

 

 

◇◇皆、何らかの霊によって導かれている◇◇

 

 

 

〔聖書箇所〕Ⅰヨハネの手紙4:1

 

4:1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

 

 

 

「霊」なんて聞くと、「幽霊」とか「怪奇現象」とか、そんなことを連想するでしょうか?あるいは、「霊なんかこの世に存在しない!」と思う方もいるでしょうか?ただ、聖書は、「霊」が存在することに関しては、ハッキリと語っています。冒頭の聖句「霊だからといって、みな信じてはいけません」と書かれている通りです。しかも「それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」とあります。これをもって、何を言おうとしているのか?と言うと、私たちは、クリスチャンであろうとなかろうと、お一人一人は何らかの「霊」によって、導かれているのです。「霊」なので、たしかに目には見えません。でも、私たちは皆、「霊」によって行動したり、話をしたり、考えたりしているのです。

 

 

 

さて、ではどんな「霊」が存在するのか?と言うと、この世において「霊」はそんなに多くは存在しない、というのが聖書での結論です。ひとつは分かりますよね?それは神さまの霊、すなわち「聖霊」です。そしてそれだけなら良いのですが、「それらの霊が神からのものかどうかを」とあるように、「聖霊」以外の別の「霊」があります。それは、「悪しき霊」(「悪霊」「サタン」と言われる霊)です。「悪霊」は、「聖霊」とは、正反対の霊です。そして私たちは、「聖霊」か「悪霊」かのいずれかの「霊」に導かれています。そしてクリスチャンになったからと言って、あるいは信仰歴が長いからと言って、いつも「聖霊」に導かれているとは言えないのです。もちろんすべてのクリスチャンが絶えず「聖霊」に導かれて欲しい!と著者は願うのですが、必ずしも導かれるとはかぎらないのです。クリスチャンと称していながらも、じつは「悪霊」に導かれる(引っ張れている)なんてことは往々にしてあり得るのです。なので、「それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」なんてことばが、わざわざ書かれているのです。

 

 

 

著者のことで恐縮ではありますが、じつは著者自身も「聖霊」以外の別の霊、つまり「悪霊」に引っ張られるなんてことはあります。もちろんこのことは望ましいことではないのですが、でも、どんな霊に導かれているか?というヒントや助けになれば・・・と思いまして、こんなことを書いているのですが・・・そしてどんな時にそういうことが起きるのか?と言うと、内側に「罪」があったり、「罪」に引きずられていくときに、「悪霊」に引っ張られていきます。心によからぬ思いが浮かんだり、はたまたそれが行動として出ることもあります。でも、それは「聖霊」からのものではありません。「悪霊」から来たものです。だからと言って、ずっとそれで良いのか?と言うと、決してそうではありません。そんな時にはすぐに神さまに助けを求めて、聖霊に導いていただくようにすれば良いのです。たとえばこんな風に祈ってみるのです。「今、心の状態が良くありません。これはきっと悪霊の思いだと思います。聖霊によって心をきよめてください。聖霊によって、心を支配してください」と。すると、すぐにきよめていただくことができて、再び「聖霊」に導いていただくことができます。

 

 

 

また、「悪霊」に引っ張られないための予防策があるので、ひとつ紹介しておきます。それは、良いことをおこなうことにひたすら熱心になることです。そして、いつもそのことを神さまに求めていくことです。「良いこと」とは、神さまに喜ばれることです。聖書に、「善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです」(第一ペテロの手紙2章15節)なんてことが書かれています。ちなみに「何が神さまに喜ばれることなのか分からない!」という方もいらっしゃるでしょう。著者も、すべてを理解しているわけではないので、そう言われる方の気持ちも分かります。そんな時にはですねぇ、「自分を通して、神さまご自身をあらわしてください!自分を通して、神さまの喜んでいただけることを成してください!」なんていう風にお祈りしてみるのです。そうすると、特別こちらで何か考えたりしなくても、聖霊の導きによって自然な流れで神さまの喜んでいただけることをおこなえるのです。一例を挙げるなら、近所の人の救いのためにお祈りをするとか、困っている人がいたら何かできる範囲で助けるとか、そういうことです。聖書のことばに、「愛顧は銀や金にまさる」なんていうことばがあって・・・「愛顧」ということばは、KJV訳(シェークスピアの時代のものなので、こちらの訳のほうが信頼できると思うのですが)では、「親切」と訳されています。「銀」とか「金」というのは、この世のお金や財産の他に、聖書の裏の意味合いとして「信仰」のことを言います。そう、言いたいことは、「人に対して親切にする」ことは、「信仰」に優るということです。クリスチャンになって、神さまにお祈りをしたり、聖書を読んだり、賛美をしたり、奉仕をすることも尊いことなのですが、でも、それよりも何よりも「人に対して親切に接する」ということを、神さまはとても喜ばれるのです!なので、神さまが喜ぶことが今ひとつ分からない!なんていう方がいらっしゃいましたら、ぜひ、お祈りの中でこのことができるように求めていくことをおすすめします。たとえ些細なことであっても、人に親切にすることを神さまは喜んでくださいますので、ぜひ、このことも習慣としていきたいですね!!そのようなことに、つまり「良いこと」に目を向けていくときに、「悪霊」に引っ張られるなんてことは無いと思います。反対に悪いことばかりに目がいくときに・・・たとえば「怒り」「憤り」「妬み」「嫉み」「人を裁く思い」「党派心(KJV訳:野心)」等で心が支配されてしまうときに、簡単に「悪い霊」に引っ張られてしまいますので・・・そして「悪霊」に支配されているときに、「聖霊」に導かれることはありませんので、絶えず「良いこと」に心を向けて、「聖霊」に導いていただけるようにしていきましょう!また、恐ろしいことに・・・「悪霊」に引っ張られ続けていくときに、クリスチャンと称していても、「天国」に入れなくなってしまいますので、くれぐれも気を付けて「聖霊の導き」を求めていきたいと思います。もし、「そうかなぁ」なんて思いましたら、ぜひ、実践してみてください。