No.27 いつでもイエスさまが共に

 

 

 

◇◇イエスさまはどんな人と一緒にいるの?◇◇

 

 

 

〔聖書箇所〕詩篇34:18

 

34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

 

 

 

著者が何年、何十年とクリスチャン生活を送っていく中で、いつも感じたり、こだわっているのは、イエスさまが共にいてくださるかどうか?です。それは日常生活でもそうですし、こんな風に神さまの働きをさせていただいているときもそうですし、あるいは聖書を読んだりお祈りをしたりしているときも、そうです。いつもいつもイエスさまが共にいてくださるといいなぁ・・・と、そんな風に思っています。

 

 

 

ところで以前の著者は、あまり聖書をよく読んでいませんでしたし、ろくに祈ってもいなかったので大きな誤解をしていました。クリスチャンになった人と・・・つまりすべてのクリスチャンとイエスさまはいつでも一緒にいてくださるものだと思っていました。でも、聖書を多少なりともまじめに読むようになり、真の意味合いでイエスさまのことを少しずつ知っていくようになって、「そうではないんだ」ということに気付きました。それに関して、聖書のことばを見てみましょう。

 

 

 

〔聖書箇所〕ヤコブの手紙4:6

 

4:6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 

 

 

「神は、高ぶる者を退け」と書かれています。KJV訳では「自慢や誇りや高慢に抵抗する、無視する」とあります。つまり、たとえクリスチャンと称していても・・・もし、自慢をしたり、誇りを持っていたり、高慢になっているなら、神さま(イエスさま)から抵抗されたり、無視されてしまうのです。「抵抗される」とは、イエスさまから拒まれてしまうことですよね。「無視される」ということは、イエスさまから相手にされないことですよね。ゆえにイエスさまが共にいてくださらない、ということなのです。

 

 

 

たとえばあなたに友人がいて・・・でも、その友人が、やたらと自慢話をしたり、高慢な態度ばかり取っていたらどうでしょう?自分はあれができる、これもできる、豪邸に住んでいる、素敵な伴侶や家族に恵まれている等・・・そういう人とずっと一緒にいたいと思いますか?少しずつ距離を置きたい、なんていう風に思うのではないでしょうか?きっと神さま(イエスさま)も同じだと思います。

 

 

 

では、イエスさまはどんな人と共にいてくださるのでしょうか?その答えが、冒頭の詩篇のみことばに書かれています。ズバリ!「砕かれたたましい」の持ち主と、共におられるのです。ちなみに「たましいの砕かれた者」のところは、KJV訳だと「罪を深く悔いている霊、心」とあります。

 

 

 

たとえば罪を犯したり、失敗をしたりしてしまったときに、「ああ、あんな罪を犯してしまった、こんな失敗もしてしまった、自分は本当に罪深い者だ、みじめな者だ、でも、神さまどうか憐れんでください、赦してください、そしてどうか悔い改めへと導いてください」と、そんな風に神さまに心を注いでいる人のことを言われているのではないかと思います。また、詩篇の別の箇所では「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあって、こちらもさきほどと同じように、KJV訳では訳されています。このことから、たとえ罪を犯すことがあっても、しかし、「罪を深く悔いる」ことが、いかに大事かが分かりますよね?しかも、私たちがそのような態度を神さまの前に表明するなら、ことさらに神さま(イエスさま)は憐れんでくださり、悔い改めにも導いてくださり、共にいてくださるのです。

 

 

 

こういうことは、たしかに世の中では受けないことかもしれません。また、多くの人がこのような生き方を受け入れることはできないかもしれません。はたまた選ばないかもしれません。でも、もしも、志を感じましたら、ぜひ、神さまに求めていきましょう。時として著者も失敗をしたり、罪を犯しますが・・・ではあっても、日々、このような歩みをスタンスにしています。そして良くも悪くも、色々と学びをさせていただいています。うまくいくことばかりか?と言うと、そうではない、ということです。それこそ少しでも高慢や誇りや自慢が浮上するなら、すぐにイエスさまは去ってしまわれることも体験しています。逆に、悔いた心になっていくときに、失敗や犯してしまった罪はともかく、イエスさまがそばにいてくださっているなぁということを感じます。高慢or悔いた心のどちらが良いか?なんていうことは取り立てて言わなくても、重々ご承知だと思います。もちろんはじめから失敗や罪を犯さないに越したことはないのかもしれませんが、しかし、そうではあってもイエスさまが共にいてくださることを、求めていきたいと思います。ぜひ、「砕かれたたましい」すなわち「罪を深く悔いた心」となって、いつでもどんな時でも、イエスさまに共にいていただきたいですね!たとえ失敗をしながらも、しかし生涯このことに目を向けていくなら、イエスさまは共にいてくださいますので、天の御国にゴールできるでしょう。

 

 

 

反対に、どこまでも自分を正当化して罪を悔い改めずに傲慢になったり、あるいは自慢や誇りに向かっていくときに、イエスさまが共にいることはありませんので・・・ゆえに天の御国は難しいと思いますので、気をつけていきたいと思います。繰り返しますが・・・ぜひ、神さまの前に絶えず「悔いた心」になって、イエスさまと共にいたいと思います。