わたしはまことのぶどうの木

 

 



ヨハネ 15: 1



わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。



ヨハネ15: 2



わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。



ヨハネ 15: 3



あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。



ヨハネ 15: 4



わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。



ヨハネ 15: 5



わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。



ヨハネ 15: 6



だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。



ヨハネ15: 7



あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。



ヨハネ15: 8



あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。



 



この箇所はぶどうの木のたとえを用いて、キリストが弟子達に語っている箇所です。



ぶどうの木がキリストであり、弟子達がその枝であるというのです。



 



そして、枝がその木から離れてしまったなら、その木から養分や水分を得る事が出来ずにその木の実(キリストから与えられる実)を結ぶ事が出来ないし、投げ捨てられやがて枯れてしまいそれらは集められて火で焼かれると語っています。



 



 



上記キリストのメッセージ箇所で、目につく言葉は とどまる という言葉です。ぶどうの木なるキリストに私達が留まる、しかも、キリストも、枝であるその人の中に留まっているなら多くの実を結ぶというのです。相思相愛の様に互いに同じ心で相通じあう関係が求められているようです。



 



7節でもさらに、とどまるに関して具体的に語られています。それはキリストの御言葉に私達が留まっているならば、主の弟子がキリストに求めたとき、願いがかなえられる。つまり望んでいる良い実を与えられる。弟子達がキリストからあたえられる実を多く結ぶ事によって神もまたそれによって栄光を受けることになる。これが、私に留まりなさい、私もあなた方の中に留まります。と言われる御言葉なるキリストと繫がる事それにとどまる事を語っています。またここでもキリストと弟子が互いに一致した関係である事が求められています。



 



 



反対にキリストの御言葉に留まっていないならどうなのでしょうか?2節で、私の枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き!そして、6節で、枝のように投げ捨てられて、人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます!と言うのです。



 



私達クリスチャンはだれもがキリストを信じ、受け入れ、救われた者であり、キリストと繫がる者でありますが、この箇所をよく見た場合、何気ない表現ですが、とても厳しい事が語られているように思います。



 



 



ここで、(枝のように投げすてられ)という表現が気になります。2節の、わたし(御霊なるキリスト)の枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除きとある様に、クリスチャンは、キリストの御言葉に固くとどまり、しかも御霊の実を結ばなければならない存在であると語っているようです。父なる神がその枝を見てこれは実を成らせるのに必要の無い枝と判断されたなら、どんどんその枝を切り取ってしまう!あくまで実を結ぶものが重要であり実を結ぶのに邪魔な枝は無用なものとして捨てられる。このように語っているように見受けられます。



 



キリストと同じものとして御言葉に留まらない枝は実をならせない。そのようなクリスチャンは必要の無い価値の無い枝とみなされて切られてしまう!そして、それらが取り除かれ寄せ集められ火に投げ込まれ燃やされると語っています。ですので私たちは教会に行っていても真にキリストに結びつき正しくキリストの御言葉に留まることが大事です!



 



ここで、燃やされる という事柄を見てみましょう。



 



 



霊に燃えとは?



 



使徒の働き 18:25



この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていた---



 



上記の御言葉からこれは、キリストの道の教えを受け、とはキリストの御言葉のポイントをついた真の教えを受けるという事ですし、霊に燃えてとは、キリストの聖霊に燃えているという事です。



これはまたキリストの聖霊に満たされていると言いうことですが、



 



神から必要の無いものとして切り離された人々は、はたして、神の聖霊で燃やされるでしょうか?神の聖霊に満たされるのでしょうか?そうではありません。これは明らかに反対の事柄であり、主イエスの御言葉のポイントからずれた間違えた教えを受け入れるなら、キリストと異質なものとなり、キリストから離された者となり、キリストの聖霊を受けることが出来なくなると理解出来ます。



 



 



ですので、他の箇所でも、刈り入れの時(終末の選り分けの時)毒麦は集められて火で焼かれるという記述が語っている事と同じで、終末の時、キリストの御言葉のポイントから離れている誤った教えを受け入れたクリスチャンは、キリストと同質でない為に御霊の実を結ぶ事が出来ない者として神なるキリストから切り離され捨てられる。そしてその枝なるクリスチャンはやがてキリスト以外の悪霊の火で燃やされるという事を語っているように察せられます。



 



これらの人々は切り取られまとまったものとして寄せ集められて火に投げ込まれて燃やされるとあるのですから、つまりは それはあるまとまりのある悪霊の火によるリバイバルが終末の時起こるという予言であると捉える事が出来ると思われます。



 



 



 



 



ヨハネの黙示録 3: 4



しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。



 



ヨハネの黙示録3:
5



勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。



 



 



このヨハネの黙示録は世の終末の事を預言した箇所ですが、終末のサルデスといわれる教会のある種のクリスチャンに対する語りかけです。サルデスの教会とはプロテスタント教会を表しているということのようですが、それが本当ならば、終末の時、非常に大きな悪霊のリバイバルがあると予想されます。



 



彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない!この言葉が語られた前の節で、サルデスのキリストの教会の中には (その衣を汚さなかった者が幾人かいる)、と書かれていると言う事は、それ以外の多くの者がその衣を汚したという事、つまり多くのプロテスタント教会のクリスチャン達が終末の時、いのちの書から名前が消される可能性があるという事、キリストに繫がっていると思われるぶどうの枝なるクリスチャンが、本当は義なるキリストの御言葉に留まらないで、キリストの御言葉以外の誤った教理を掴んでしまった為に切り取られてしまい、結果キリストの霊以外の悪霊のリバイバルの火の中に入って行く事が予想されます。勿論その行き着く先は、天の御国ではなく、本人の思惑とは違い御国から外されてしまうので結果、気が付いた時には遅く、ほぞを噛む状態になってしまうのです。あなたは生きているとされているが、実は死んでいるとサルデスの教会の人達はキリストに言われています。惑わされた人達は最後まで、気が付かないのでしょう。そしてそれらの人々が多いようです。



 



 



キリストの真理の御言葉に留まり、悪霊のリバイバルに入って行かないように常に義なるキリストに固く結びつき、最後まで忠実にキリストの戒めを固く守り、義の衣を汚す事にならないように祈り求めていきたいです。