「神の子とされるには」

 

 

聖書で、神の子とされるという場合、子に関してKJV訳では、”adoption”と書かれています。

 

「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」

ローマ人への手紙8:15

 

ここで、子としての子は、実子ではなく養子縁組の”adoption”と書かれています。他にも”adoption”という言葉がいくつも出て来ます。養子縁組は、契約関係の中にあるので契約を守っている間は、子としての資格はあり、そうでない場合は契約を破棄されるということです。

 

ですので、一度、キリストを神事受け入れたら何をしても赦され、天国には入れるというキリスト教界の常識とは、異なります。正しく神様が語っている事を受け入れるなら、少しずつ他の箇所も理解出来る様になります。しかし、神の言葉を捨て、自分の思いを優先するなら正しく理解することは出来なくなります。逆にすでに見えている事すらも惑わしに入ると見えなくされてしまうので、よくよく気をつけていきたいと思います。

 

今は、多くの御言葉が曲げられています。器が言う事と御言葉が違った場合、御言葉を優先しましょう。この世は、ますます背教に向かっています。その様な流れの中にあっても御言葉に立つ事が出来る様、求めていきましょう。

 

私達が御言葉を重んじ正しく従った結果、多くの人から憎まれたとしても恐れる事はありません。

 

御言葉を捨て、人々から受け入れられても、神の子とされるのではないのです。救いは、ただ信じることによって救われますが、永遠のいのちが保証されている訳ではないのです。

 

「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」

マタイの福音書10:39

 

それだけ、天国に入るのにシビアな時代になっていくことが、予想されると思います。

 

この事を深く知る様になって私の心の内に変化が起こりました。時々、ある人の為にとりなし祈る様にしていました。わだかまりのある人でしたが、ある時、道でばったり会った時、笑顔で接する事が出来ました。

 

その人も救われて欲しいという思いが、私に与えられていたので、自然に接する事が出来たのです。かつては、自分にはない事でした。

 

天の御国に価値があることを知ってから御言葉を恐れる様になりました。天の父は、私たちの心をよく御存知です。的はずれにならない様、幼子の様な歩みをしていきたいと思います。