『ささやかな出来事』

 

 

 

 

私事ではありますが、自宅から歩いて15分ほどのところに回転寿司のお店があり、月に1~2回位、行きます。

 

 

 

この文章を読まれている方の中で、回転寿司に行ったことのある人は分かると思いますが、食事が終わったら店員の人を呼んでお皿の数を数えていただいて、伝票をいただいて会計をするのが定番ですよね。

 

 

 

ある時、いつものように店員の人に来ていただいて皿数を数えていただいていたのですが、189円皿のお皿の数を一枚多くカウントしていました。いつも決まって「ご一緒にお皿の数の確認をお願いしますね」と言われるのですが、間違えたことはそれまでありませんでした。でも、その日はなぜか、一枚多く数えられていました。「さて、言ったほうが良いかどうか?」と一瞬思ったのですが、心の中でさりげなく「イエスさま」と呼びかけたら、「いや、言わないほうがいい。そのまま支払いをしたほうが良い」という思いが心にきましたので、何も言わずにそのままの状態で会計を済ませました。

 

 

 

それから数ヶ月経って・・・その間も何回かそのお店で食事をしたのですが、しばらくしたある日、会計のレジのところで気付いたことがありました。105円の商品を1つだけオーダーしたのですが、その分だけが含まれていませんでした。支払いをする前のことだったので、店員の人に、「あの、○○も頼んだんですけど、入っていないみたいです」と言うと、「ああ、いいですよ。大丈夫です」と、しかも笑顔で対応してくださいました。「ん?いいのかなぁ??」と思ったのですが、せっかくだったのでご好意に甘えることにしました。それからまた、別の日に行くと・・・ちなみにそこのお店はタッチパネルで商品を選ぶシステムで、その後店員の人がオーダーしたものを持ってきてくれるのですが・・・315円のものを頼んだら、252円皿で持ってきたのです。特に私は気が付かなかったのですが、同伴した家族が「あれ?これって252円だったっけ??たしかパネルには315円で表示されていたよね?サービスしてくれたのかな??」と笑いながら言っていました。

 

 

 

さらに直近のことですが、例の105円の商品を、またまたサービスいただいてしまったのです。いったい、どうなっているのだろう?と、とても不思議でした。細かいことを言うと、はじめ189円多く支払って、でも、合計で273円分サービスしていただいて、結果としては『84円』も得をしてしまったのです。

 

 

 

これを読まれた方がどんな風に思われるか分かりませんが・・・ある方にとっては、たかが『84円』のことじゃない?と、おっしゃるでしょう。そう、人間的には、たしかにそうかもしれません。でも、値段のことを申し上げたいわけではないことを、どうかご理解いただけたらと思います。はじめの時、もし、私が一瞬でもイエスさまに心を向けなかったら、結果は大いに変わっていたのでは?と思います。もちろんサービスしてもらえることなんてことは期待もしていませんでしたし、考えもしないことでしたが・・・でも、もしかすると、この一件の出来事を通して神さまはご自身のわざをあらわされようと思ってくださったのでは?と、思います。店員の人は何も知らないはずですし、私もそんなことはとうに忘れていたことだったのですが、神さまがそういう些細なこともご覧になっておられて、そのことを喜んでくださって、店員の人を通してみわざをあらわしてくださったのだと思います。

 

 

 

振り返ってみても、実際に私がしたことなんて、全く大したことはないですし、こんな風に証すること自体も恥ずかしいことではありますが・・・ただ、聖書のみことばで「与えなさい、そうすれば与えられます」とか「受けるより与えるほうが幸いです」なんていうことが言われているので、このような形でほんのわずかでも、もし実践させていただけたのでしたら、幸いだと思いました。もちろん「一皿多いですよ」と誤りを指摘することは人間的には全く悪いことではありませんし、ごく普通のことだと思います。でも、その時の神さまからの示しは「言わないほうが良い」ということで、そのことに従って本当に良かったと思いました。(仮にみわざをあらわされなかったとしても、神さまの声に従えたことは良かったと思いました)

 

 

 

ふと、こんなことを思い出しました。以前行っていた教会の牧師が、「信仰生活はね、必ずしも1+1=2ではないですよ。」と微笑みながらかつて講壇で語っていたことがありましたが、本当にそうだなぁと思いました。

 

 

 

今回のことを通しても、どんなことであっても、また、何か不合理だなぁと思うことがあっても、一にも二にも、まずは神さまに聞くのが一番!だということをも教えられたように思いました。そしてたとえ自分の意に沿わないことであっても、理屈に合わないことであっても、神さまの声を一番にしていくときに、神さまが喜んでくださったり、場合によってはみわざを成してくださったり、必要なことを教えてくださったりするのだなぁと思いました。

 

 

 

また、たとえ見える形で神さまのわざがあらわされなかったとしても、神さまから示しを受けて、ほんの小さなことでも与えていくときに、決して損をすることはないんだなぁということを、ふと心に感じました。もし、そういったことで直接的に神さまのみわざを見ることができなかったとしても、しかし、目には見えない神さまが万事をきちんとご覧になっていてくださり、覚えていてくださり、そしてそのことは、後の世においての報いに大い反映されるので、どういう状況であれ、ひたすら神さまを信頼していきたいと思います。もちろん神さまの数々のみわざが至るところであらわされることは大事なことですし、今後もそのことを切に望み、大いに期待はしますが、ではあっても・・・みわざをあらわしてくださろうと、そうでなかろうと、いつでも神さまの声に従って、神さまに喜んでいただけることにこれからも一心に励んでいかれるといいなぁと思います。

 

 

 

私のつたない証ですので、人様が聞くと、大した出来事ではないかも知れませんが、私にとっては神さまからの大きなプレゼントでしたので、証をさせていただきました。最後に、先ほど紹介しましたみことばを読んで証を終わりにしたいと思います。

 

 

 

6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

 

(新約聖書〔新改訳〕:ルカの福音書6章38節)

 

 

 

20:35 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

 

(新約聖書〔新改訳〕:使徒の働き20章35節)