『神様に助けられたこと』

 

 

 

 

 

今から約10年前のことです。当時、私は片道10kmほどの道のりを、自転車で通勤していました。ある日、仕事の帰りがけに、同僚と一緒に食事をすることにしました。同僚は原付のバイクを使用していたので、私は自転車で、同僚はバイクで、近くのファミリーレストランに向かいました。業務のことや互いのプライベートのこととかで話が弾み、そして、「さぁ、明日も仕事だから、もう、そろそろ帰ろう」と言って、駐輪所で別れました。

 

そして、いざ帰ろうと思って自転車の鍵を解除しました。その時に気づいたことなのですが、思うように自転車が前に進みませんでした。「ここに来るまでは、なんとも無かったのにおかしい」と思い、タイヤの付近を見てみました。すると、パンクはしていなかったのですが、空気が大分抜けている感じでした。あまりはっきり覚えてはいないのですが、一部に傷が付いていて、そのために、思ったように動かない感じでした。

 

「どうしよう?」と、一瞬、途方に暮れました。家まで運ぶには距離がありすぎるし、かと言って、どこかに置いて電車で帰るのもなぁと・・・どのみち、明日、なんとかしなければいけないし・・・自転車を押しながら、そんなことを考えていましたら、一軒の自転車屋さんが目に留まりました。でも、残念ながら、営業時間はとっくに終わっていて、シャッターは閉まっていました。

 

当時、私は洗礼を受けたクリスチャンではありましたが、ただ、信仰生活とイエス様から離れていました。でも、その時に、こんな御言葉を思い出しました。

 

“わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。”だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

(新約聖書〔新改訳〕:ルカの福音書11章9,10節)

 

ダメかも知れない、でも、ひょっとしたら、助けてもらえるかもしれないと、わずながらも、この御言葉に望みをおいて、自転車屋さんの自宅の玄関のインターホンを押してみました。一度目は、何の応答もありませんでした。「やっぱりダメだよね」と、思いながらも、「いや、もう一度」と思って、再度、押してみました。すると、インターホン越しに、「はい」と、言う声があり、それに続いて、「もう、今日は、営業は終わっていますから」と、言われました。すかさず、「はい、分かっていています。無理を承知の上で、お願いにあがりました。この近くで仕事をしている者ですが、自宅まで距離があって、困っているので助けて欲しいのです。よろしければお願いします」と言いました。しばらく間があったのですが、そこのご主人が出てきてくれました。はじめは若干、戸惑っていた感じでしたが、その後、すぐに対応してくださり、処置してくださいました。そのおかげで、無事に帰宅することができました。申し訳無かったなぁ、でも、とても助かったので、「本当にありがとうございました」と言って、その日は帰り、翌日、気持ちばかりのお礼の品を受け取っていただきました。

 

さっき言いましたように、その時は、信仰生活から離れていたのですが、神様が私に、御言葉を思い起こさせてくださって、助けてくださったのです。「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」と書かれているように、神様が解決の道を私に開いてくださり、与えてくださったのです。ではあっても、はじめは半信半疑でした。でも、「どんなことも、信仰をもって行うことが大事だ。御言葉を信じれば、きっとなんとかなる」と思って、そして踏み出してみて、本当に良かったなぁと思いました。信仰生活からもイエス様からも離れていたそんな状態の私に、神さまは、この究極の時、助けの手を差しのべてくださったのです。神さまの助けと憐れみ、このことを思い出すと、今でも、ジーンときます。そのことがきっかけではなかったのですが、それから約3年後、私はクリスチャンとしての歩みを再開することができました。その時も、神さまの一方的な憐れみと愛によって、イエス様と信仰生活に立ち返らせていただくことができたのです。そのような偉大な唯一の真の神様を、これからも、ひたすら見上げて、神様が喜んでくださることを行っていけたらなぁと思います。