『通学の時』

 

 

高校生の時でした。私は電車で通学をしていました。ある日のことです。都心に向かう電車の中でのことですが、急に体調が悪くなりました。通勤&通学の時間帯のため、乗車率はかなりなもので、身動きがほぼ取れない状態でした。次は終点というタイミングでした。しかし何駅か通過するために、10分くらいは降りられないという状況でした。「さて、困ったなぁ」と思いつつ、混んだ中でうずくまってしまいました。

 

 

 

下のほうで身をかがめながらも、無意識のうちに「神さま、助けてください」と心の中で幾度か叫んでいました。当時はクリスチャンではなかったのですが、もし、神さまがいるなら、助けてくださるのではないかと、そんな思いが一瞬にして頭をよぎったのでは?と思います。すると不思議なことに、あまり間をうつさずに、だんだんと体調が良くなってきたのです。そしてその後、電車が到着する前に立ち上がることができました。その瞬間、「ああ、助かったー」と思いました。その時は、クリスチャンではなかったので言えなかったのですが・・・ハレルヤ!神さまに心から感謝です!!

 

 

 

以前も、クリスチャンになる前に神さまから助けられたことについて証をさせていただいたことがあったかと思うのですが、つい最近、このことを思い出しましたので、お話させていただきました。

 

 

 

クリスチャンでもない自分がなぜ、神さまからの助けを受けることができたのだろう?と、今でもとても不思議に思うのですが、ありとあらゆる方法で神さまはご自身がいらっしゃることをあらわしておられるんだなぁと思います。たとえ今はクリスチャンでなくても、何かのことをきっかけに神さまに触れている人は案外多いのでは?なんていうことを自分の過去を振り返っていく中で、最近になって改めて思いました。

 

 

 

また、某キリスト教で発行している雑誌のひとコマに、「神さまはピンチの時に、助けてくださる。だからピンチの時にこそお祈りしましょう!」なんていう記事が載っていましたが、その通りだと思います。何か究極のことが起こると、「もう、ダメ~」なんてあきらめてしまいがちだったり、つい弱気になりがちだったりすることがありますが、でも、どんな時でもあきらめずに、神さまに助けを求めていくのはとても大事なぁなんていうことも、思いました。もしかすると、それは自分の思い描いていた方法ではないかもしれません。あるいは、場合によっては人からの助けは来ないかもしれません。でも、私たちクリスチャンの助けは天から来るので、いつもいつも神さまに期待して、助けを求めていきたいと思います。今回、証をしながら、自分自身がとても大切なことを教えていただいたり、思い起こさせていただいたように思います。さいごにみことばを読んで証を終わりにしたいと思います。

 

 

 

121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

 

121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。

 

(旧約聖書〔新改訳〕:詩篇121篇1,2節)